2017年3月14日火曜日

Stones vs Dead

ストーンズとデッドと、両方でツアーマネージャーをやっていたというサム・カトラーの本を読む。「オルタモントの真実」というタイトルで2011年に日本で出版。原題は「You can't always get what you want」で2010年のもの。
ロンドン郊外で育ったカトラーがピンク・フロイドの事務所に入ったのが67年、24歳。
69年7月のストーンズのハイドパークでのフリーコンサートの現場責任者になる。コンサートのオープニングでMCを務めているのがカトラーだ。
69年10月からのストーンズ全米ツアーに、ツアーマネージャーとして同行する。西海岸でのプロモーターはビル・グレアムだ。オークランド・コロシアムのステージで、カトラーとグレアムは開場後のステージ上で殴り合いのけんかをする。
(ビル・グレアムの伝記によれば、つかみ合いになったのは開演後「サティスファクション」の演奏中。ビル・グレアムの伝記を読んでいると、ビル・グレアムとストーンズサイドと、ともに相手を「アマチュア」呼ばわりしているところが面白い。さてどっちが田舎もん、なのか)

ストーンズの公演のチケット代は高すぎるという批判が出て、お返しに西海岸でフリーコンサートをやろう、という話が出てきた。カトラーはストーンズ側の代理人としてサンフランシスコに出向く。フリスコ側の交渉役はデッドのマネージャーだったロック・スカリー。
コンサートの運営はデッド・オフィスと、「ディガーズ」というフリスコのイベント企画集団があたることに。
ところが、デッド・オフィスには責任者がいない。表向きはミッキー・ハートの父親、レニー・ハートがマネージャー、ということになっているが、事務所の方針は、デッドのメンバーやスタッフのミーティングですべてが決まるようだということにカトラーが気がつくのに、時間がかかる。
ストーンズの最終意思決定者はもちろんミック・ジャガーだ。

ミックは「ストーンズのフリーコンサート」にこだわった。
ストーンズ、デッド+フリスコサイドに、なぜかウッドストックのプロデューサー、マイケル・ラングも加わって、話はさらにややこしくなる。コンサートは12月6日と決まったのに、4日前になってもまだ会場が決まっていなかった。

コンサート会場がオルタモント・スピードウェイに決まったのが前日。客が集まり始め、粗悪なLSDをばらまいている怪しげな男たちも登場。
本番当日。出演時間を繰り上げたストーンズのステージが始まるころには、言い出しっぺだった人物や、オーガナイザーとして動いていた人物たちが、現場から姿を消した。デッドは会場に着いたものの、あまりの雰囲気に驚いて、そのまま演奏せずに帰ってしまった。(ビル・グレアムの伝記には、「マネージャーが殴られて、デッドは引き返した。その日、フィルモア・ウェストでのライブの予定があったがそちらもキャンセルした」)

コンサートのあと、ストーンズはそのままロンドンに戻り、カトラーだけ現場に残された。
ボロボロになったカトラーを自宅にかくまったのは、ジェリー・ガルシアだった。それから4年ほど、カトラーはデッドのツアーマネージャーとして働く。
70年6月。映画「Festival express」として記録に残っているカナダツアー。初日のトロント公演には、ただで入れろ!という客が殺到して騒動に。ウッドストックは悪い前例を作ってしまった。
「フリー」という言葉がひとり歩きして、音楽はただであるべきだと主張する人たちがあちこちに出てきた。そしてデッドは、フリーの音楽を供給してくれるバンド、とみなされた。
74年、カトラーは請負金額のことでデッド・オフィスともめてツアーマネージャーをやめた。

ウッドストックのあと、体制側は数十万人の若者が集まる「フリーコンサート」を警戒し始めた。ストーンズのフリーコンサートをなんとかつぶそうという動きがあってもおかしくなかった。
一方、ヒッピーたちはウッドストック以後、コンサートは無料でやるのが当たり前、という呪縛にのめりこんでいったのではないか。
グレース・スリックのコメント:ウッドストックは泥にハマったナイーヴなまぬけどもの集まり、そしてオルタモントは、泥にハマった怒れるまぬけどもの集まりだったのよ。(「ビル・グレアム/ロックを創った男」より)