2010年8月17日火曜日

Book on:スロッビング・グリッスルを愛さない

事務所を借りるつもりで、ひもで縛ったままの本も、そろそろ解放してやりたくなった。事務所開設の予定は今のところない。となれば、我が家の中で何とかするしかない。このごろ、ほとんど本は買っていないが、それでも、本棚6つ分くらいの本がある。20代、30代の金のない頃に、買った本が多い。絵本や童話のたぐいもたくさんある。

その童話や絵本を、そろそろ何とかしたいとカミさんに言う。
何とかって、どうするの?
まあ、そりゃあ、ブックオフへ持っていくのかな。
買ってくれないよ。ゴミになるだけ。
でも、もう、家にあっても読まないじゃないか。

そんな会話があって、しばらく保留に。
新聞の読書欄にいしいしんじという作家が書いていた。
「(50年後には)たぶんあらゆる本が生々しく愛おしい。電子書籍が話題にのぼるようになってから、家にある本はすべて残しておこうと決めている。」
50年後(どころか、うちは20年後?)には、たぶん、処分の行き先を決めかねて、残された家族が悩んでいる姿も想像できるが、とりあえず、判断は先延ばしにすることにした。

iPodで音楽を聞くことに抵抗はぜんぜんないが、iPadで本を読もうという気にはなれない。でも電子書籍はすべて否定、ということではないと思う。今では、雑誌や新聞よりネットで情報を仕入れることの方が多いのだし。だけど、やっぱり携帯やパソコンの画面で小説を読みたいとは思わない。

中原昌也の本は読みました。「あらゆる場所に花束が…」。
物語が必要とされていないのに、さらに物語を作る必要があるのかどうか。計算された嘘くささが、さらに嘘くささを増す。主人公もいないし、ストーリーもないし、文体もない。それでも書きたい物語って何???

長編小説の深みに落ちこみたくて、「大統領の最後の恋」を借りた。ウクライナの作家だ。前作「ペンギンの憂鬱」はとてもおもしろかった。4年前にリクエストしてからずっと、図書館に置いたままだった。まだ途中。おもしろい。

前にふれた書評欄に、「ビートが聞こえる本(このPCでは、「きこえる」は「聞こえる」としか変換できない。新聞では「聴こえる」である。最近は、自分では使い分けにあまりこだわらず、わからないときはひらがなに開くようにしている。使い分けは習慣的に決められてきたことであり、絶対的なものではないと思う)。」というコラムがあって、この中原の本も紹介されていた。
「スロッビング・グリッスルを愛する著者はミュージシャン。」なるほど。(書いているのは記者か)
スロッビング・グリッスルには、つらい思い出がある。
30年ほど前、仕事から家に帰る途中、道路の真ん中に馬が倒れていた。交通事故だったと思う。危うく轢きそうになった。その時クルマの中で流れていたのが、スロッビングだった。たぶん、この時以来一度もこのバンドの音を聞いていないと思う。
中原とはあわない。こりゃ仕方ない。